2010/04/19 00:21:55
yahooをトップにしていようがgooをトップにしていようがまず最初に飛び込んでくるのは大抵ニュースの題名な訳ですが、ニュースがいちいち暗くて気分が重たくて仕方がない。
仲良くしろというのはそんなに難しいことなのだろうか?
これに対して答えるのなら、一言「難しい」である。
他に何か言い方があるのだろうが、どう飾り立ててどう綺麗にしてみせたところで実際のところはそう「難しい」のである。少なくとも個人としてはそう思うし、そうとしか思えない。ならば、難しければ不可能かといえばそんな事は決してない。そりゃ嫌いな人間はいるだろうし、好きな人間にも嫌いな一面が見え隠れしてうざったくなる時だってある。問題は、「仲良くする」上で重要なことが何か。好きか嫌いかは、実は問題ではない。は?何言ってんだお前嫌いな奴と仲良くなんかできるわけねえだろ、と言われてしまえば全くもってその通りで仰る通りです、と返す事しかできないのだがしかしちょっと聞いていただきたい。
好きな人、嫌いな人ってそもそもなんだろうか?
好きな人にだって嫌いなところがあるわけだ。青春真っ盛りの恋愛(恋は盲目っていいますね)ならばともかく、どんなに好きな人だって「ちょっとここは直して欲しいよな」と思うところはあるわけだ。もしもないというのなら、それはきっときちんと見ていないか見ている方向が違うのだと思う。
逆に、嫌いな人にだって良いところはあるはずだ。しかしその良いところを認めることができずに好きになれないまま、むしろその部分も含めて嫌いになってしまうというパターンも存在する。
嫌いになることはとても簡単なのに、好きになることは簡単ではない。ような気がしてしまう。
好きな人の嫌な部分と嫌いな人の嫌ではない部分。そのどちらも見つけにくいのが人間なのかもしれないが、それにしたってだから仕方がありませんねという話ではあんまりではないだろうか。
相手のすべてを受け入れろ。
好きも嫌いも言うな。
あらゆる人を愛しなさい。
などとはどうあっても言えないし言う気もないし、言われたところでスルーしてしまうのがオチだ。
そんな事ではなく、仲良くするというのはもっと根本的なところではないだろうかーと思わない事もない。
許してもらえた分だけ許そうと思えば許し合える程度の事なのに、たったそれ一度きりで大嫌いの大嫌いの大嫌い!になってしまうというのは、色んな意味で勿体無いと思う。互いにそれができないから仲良くできないのだという話かもしれないが、仲良くするというのは難しいことだが決してできないことではないはずだ。物はなかなか捨てられないのに友人は使い捨てにするだなんて、もういっそ悲しい。
仲良くすることはそんなに難しいことなのかどうなのか。
それは確かに難しい。難しいが、しかし不可能ではないはずだ。
ではどうすれば仲良くすることができるのか。
いい加減に面倒になって来たので(すみません)一言で言ってしまうとつまり、「余裕を持て」ということなのだと思う。
仲良くしろというのはそんなに難しいことなのだろうか?
これに対して答えるのなら、一言「難しい」である。
他に何か言い方があるのだろうが、どう飾り立ててどう綺麗にしてみせたところで実際のところはそう「難しい」のである。少なくとも個人としてはそう思うし、そうとしか思えない。ならば、難しければ不可能かといえばそんな事は決してない。そりゃ嫌いな人間はいるだろうし、好きな人間にも嫌いな一面が見え隠れしてうざったくなる時だってある。問題は、「仲良くする」上で重要なことが何か。好きか嫌いかは、実は問題ではない。は?何言ってんだお前嫌いな奴と仲良くなんかできるわけねえだろ、と言われてしまえば全くもってその通りで仰る通りです、と返す事しかできないのだがしかしちょっと聞いていただきたい。
好きな人、嫌いな人ってそもそもなんだろうか?
好きな人にだって嫌いなところがあるわけだ。青春真っ盛りの恋愛(恋は盲目っていいますね)ならばともかく、どんなに好きな人だって「ちょっとここは直して欲しいよな」と思うところはあるわけだ。もしもないというのなら、それはきっときちんと見ていないか見ている方向が違うのだと思う。
逆に、嫌いな人にだって良いところはあるはずだ。しかしその良いところを認めることができずに好きになれないまま、むしろその部分も含めて嫌いになってしまうというパターンも存在する。
嫌いになることはとても簡単なのに、好きになることは簡単ではない。ような気がしてしまう。
好きな人の嫌な部分と嫌いな人の嫌ではない部分。そのどちらも見つけにくいのが人間なのかもしれないが、それにしたってだから仕方がありませんねという話ではあんまりではないだろうか。
相手のすべてを受け入れろ。
好きも嫌いも言うな。
あらゆる人を愛しなさい。
などとはどうあっても言えないし言う気もないし、言われたところでスルーしてしまうのがオチだ。
そんな事ではなく、仲良くするというのはもっと根本的なところではないだろうかーと思わない事もない。
許してもらえた分だけ許そうと思えば許し合える程度の事なのに、たったそれ一度きりで大嫌いの大嫌いの大嫌い!になってしまうというのは、色んな意味で勿体無いと思う。互いにそれができないから仲良くできないのだという話かもしれないが、仲良くするというのは難しいことだが決してできないことではないはずだ。物はなかなか捨てられないのに友人は使い捨てにするだなんて、もういっそ悲しい。
仲良くすることはそんなに難しいことなのかどうなのか。
それは確かに難しい。難しいが、しかし不可能ではないはずだ。
ではどうすれば仲良くすることができるのか。
いい加減に面倒になって来たので(すみません)一言で言ってしまうとつまり、「余裕を持て」ということなのだと思う。
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2010/02/13 01:57:19
今や携帯電話がない生活など社会人どころか学生を含めて考えられない時代になっている。次々と出てくる新しい機種に機能、カラーもバリエーション豊富と来れば流行や新鮮なものを好む若者の目を引かないわけがない。
今や小学生ですら携帯電話で連絡を取り合う時代になっているが、今回はその事に少し注目したい。単なるぼやきめいた戯言なので専門的なものは何もないが言いたい。
携帯電話は果たして安心の道具であるのかどうなのか。
携帯電話を持たせる事によってどこにいても常に連絡を取る事ができるという状況になり、それは親が子を(御幣があるかもしれないが)監視するのによいという認識である事に対して別にとやかく言うつもりもないのだが、しかしそれでいいのだろうかと疑問はある。
常に繋がっているという事は常に切れるということだ。
公衆電話で連絡を取っていた頃はその瞬間しか繋がらない。しかしその瞬間は確実に繋がっていて、一方通行ながら確実に連絡を取る事ができた。が、携帯電話は常に連絡を取れるが故に「電波が届かなかった」「サイレントで気付かなかった」と常に連絡が取れない事と紙一重であるともいえる。
常に繋がることのできる道具である携帯電話は、それと同時にどんな時も繋がりを切る事ができる道具でもあるといえるのではないだろうか。いつでも連絡が取れるが故に連絡を取らない事すら有り得る。
「いつでも連絡が取れる」のだから「"今"でなくとも良い」のだ。
だから「"つい"連絡を忘れた」り、何ならわざと「連絡しない」。
そして携帯電話は見た目だけの安心を生んでいるともいえる。
夜の8時になっても子供が帰ってこない状況よりも、6時には既に家にいて携帯電話を弄っている状況の方が見た目の安心は高いだろう。だが、それは決して安全とは結びついていない。むしろ見えない交流こそが恐ろしいとも言える。
特に小学生なんか親が交流を把握していてなんぼである。
親が把握できない交流なんぞ必要であるのかどうなのかが個人的には疑問でならない。
要るのか?親にはナイショのオトモダチ。
大体なんだ親にすら明かせない友達って。オマエそれ友達じゃねーよ。と言いたい気分だが話があまりに脱線しすぎるのでそれは今のところただの呟きで留めておく。
そして防犯システムや居場所感知システム。
これらの機能は防犯上とても便利であるとされる。便利で安心で、そして安全を約束してくれるのだそうだ。全ての親がそう思っているとは言わないが。
携帯電話なんざいざという時、何の役にも立たないのだという前提で考えておくべき事柄だろうと物凄く思う。
居場所発見には役立つだろう。
足取りを追跡するのにも役には立つだろう。
しかしいざ何かが起こったその瞬間、それらは安心も安全も保障しない。過信しすぎてはいけない。携帯電話はあくまで道具である。妄信的になっている人がたまにいるのだが、怖くないのかそれは。
今や小学生ですら携帯電話で連絡を取り合う時代になっているが、今回はその事に少し注目したい。単なるぼやきめいた戯言なので専門的なものは何もないが言いたい。
携帯電話は果たして安心の道具であるのかどうなのか。
携帯電話を持たせる事によってどこにいても常に連絡を取る事ができるという状況になり、それは親が子を(御幣があるかもしれないが)監視するのによいという認識である事に対して別にとやかく言うつもりもないのだが、しかしそれでいいのだろうかと疑問はある。
常に繋がっているという事は常に切れるということだ。
公衆電話で連絡を取っていた頃はその瞬間しか繋がらない。しかしその瞬間は確実に繋がっていて、一方通行ながら確実に連絡を取る事ができた。が、携帯電話は常に連絡を取れるが故に「電波が届かなかった」「サイレントで気付かなかった」と常に連絡が取れない事と紙一重であるともいえる。
常に繋がることのできる道具である携帯電話は、それと同時にどんな時も繋がりを切る事ができる道具でもあるといえるのではないだろうか。いつでも連絡が取れるが故に連絡を取らない事すら有り得る。
「いつでも連絡が取れる」のだから「"今"でなくとも良い」のだ。
だから「"つい"連絡を忘れた」り、何ならわざと「連絡しない」。
そして携帯電話は見た目だけの安心を生んでいるともいえる。
夜の8時になっても子供が帰ってこない状況よりも、6時には既に家にいて携帯電話を弄っている状況の方が見た目の安心は高いだろう。だが、それは決して安全とは結びついていない。むしろ見えない交流こそが恐ろしいとも言える。
特に小学生なんか親が交流を把握していてなんぼである。
親が把握できない交流なんぞ必要であるのかどうなのかが個人的には疑問でならない。
要るのか?親にはナイショのオトモダチ。
大体なんだ親にすら明かせない友達って。オマエそれ友達じゃねーよ。と言いたい気分だが話があまりに脱線しすぎるのでそれは今のところただの呟きで留めておく。
そして防犯システムや居場所感知システム。
これらの機能は防犯上とても便利であるとされる。便利で安心で、そして安全を約束してくれるのだそうだ。全ての親がそう思っているとは言わないが。
携帯電話なんざいざという時、何の役にも立たないのだという前提で考えておくべき事柄だろうと物凄く思う。
居場所発見には役立つだろう。
足取りを追跡するのにも役には立つだろう。
しかしいざ何かが起こったその瞬間、それらは安心も安全も保障しない。過信しすぎてはいけない。携帯電話はあくまで道具である。妄信的になっている人がたまにいるのだが、怖くないのかそれは。
2010/01/08 23:53:18
飯を食うということは命を食べるということだ。美味いものがあれば、その後ろに死んだ生き物がいたということだ。我々はそれを知りながら、実は知らないでいる。つまり意識のうちにはあまりないのだ。
それはなぜか。
答えは実に単純なものだと思う。そう、自分は関わっていないからだ。例えば一頭の牛がいるとする。次に見るのは美味そうに焼かれてしっかり味のつけられたステーキだ。誰がこれをあの牛だと思うだろうか。端的に言えば、豚でも鶏でも肉だ。口に入り、それが美味ければ構わない。途中の過程がすっぽり抜け、通常そこに一般人は関わらない。これが意識のうちからそれを抜け出させてしまう原因だろう。もちろん他にもあるだろうが。
世の中を適当にでもぐるりと見てみればわかる。どのテレビも牛の乳搾りの映像は流すが、牛を殺す様子は驚くほどに流さない。流したところで異国のなんじゃら民族のものだ。現実味などなく、まるで日本とは無関係であるかのように「彼らはこうして牛を」なんてナレーションまでご丁寧についている事もある。彼らってオマエ。同時に、乳搾りは体験させるが牛を肉にする事には参加させない。危ないからか?そんなばかな。
余った食材を罪の意識もなく安易に大量廃棄するのも、個人的に適当に生ゴミにしてしまうのも、その裏にある命を軽視しているどころか知らないことが原因のひとつであると考えられるのではないだろうか。
ペット虐待でも殺人でも(ここでは命という範囲で同列だ)遊び半分で時には真剣に殺してしまうのもあるいは。
目の前で先ほどまで駆けていた鶏が人間の手によってきゅっと締め上げられて食卓に出てきたのならば、ちょっとくらい焦げていただのあんまり味付けが好みではないだの、その程度の理由でぽいっと投げ捨てられますか、という話。
できるという人間がいたところでその個人を問題だとは思わない。その状況を想像した程度で心底から分かるなどという事はないだろうから。しかし実際にこういった場面においてその肉を投げ捨てることができたのならば、そして周囲がそれを良しとしたのならば、さてどうだろうか。
それはなぜか。
答えは実に単純なものだと思う。そう、自分は関わっていないからだ。例えば一頭の牛がいるとする。次に見るのは美味そうに焼かれてしっかり味のつけられたステーキだ。誰がこれをあの牛だと思うだろうか。端的に言えば、豚でも鶏でも肉だ。口に入り、それが美味ければ構わない。途中の過程がすっぽり抜け、通常そこに一般人は関わらない。これが意識のうちからそれを抜け出させてしまう原因だろう。もちろん他にもあるだろうが。
世の中を適当にでもぐるりと見てみればわかる。どのテレビも牛の乳搾りの映像は流すが、牛を殺す様子は驚くほどに流さない。流したところで異国のなんじゃら民族のものだ。現実味などなく、まるで日本とは無関係であるかのように「彼らはこうして牛を」なんてナレーションまでご丁寧についている事もある。彼らってオマエ。同時に、乳搾りは体験させるが牛を肉にする事には参加させない。危ないからか?そんなばかな。
余った食材を罪の意識もなく安易に大量廃棄するのも、個人的に適当に生ゴミにしてしまうのも、その裏にある命を軽視しているどころか知らないことが原因のひとつであると考えられるのではないだろうか。
ペット虐待でも殺人でも(ここでは命という範囲で同列だ)遊び半分で時には真剣に殺してしまうのもあるいは。
目の前で先ほどまで駆けていた鶏が人間の手によってきゅっと締め上げられて食卓に出てきたのならば、ちょっとくらい焦げていただのあんまり味付けが好みではないだの、その程度の理由でぽいっと投げ捨てられますか、という話。
できるという人間がいたところでその個人を問題だとは思わない。その状況を想像した程度で心底から分かるなどという事はないだろうから。しかし実際にこういった場面においてその肉を投げ捨てることができたのならば、そして周囲がそれを良しとしたのならば、さてどうだろうか。
2009/12/18 00:55:37
「あれはだめです」とか「これはいけないことです」だとか、大人ってのは気がついたら口をすっぱくして何度も何度も子どもに言い聞かせる生き物だなーと子どもの頃、特に意味もなく漠然と思っていたことがあります。
同時に根拠なく自分はそんな大人にならないような気もしてました。
そしてそれと対にでもなるように、「だめ」とか「いけない」とか、そんなことを言われた時に子どもってのは「どうして?」「なぜ?」って思う生き物だと今となっては思います。
しかし、この「どうして?」「なぜ?」に大人は答えられない。
だって自分も子どもの頃にそれを知らないまま教えられて大人になったから(ではないだろうか)
子どもにだってもちろんわかる。
人を叩いてはいけないとか意地悪しちゃいけないとか、そういうことはね。
でも「どうして?」「なぜ?」って思った時、大人はその疑問を捻り潰す。
でもじゃないだってじゃない!そういうものなの!あなただってされたら嫌でしょう!って。
「自分がされたら嫌だから人にしない」ようにさせるのって、この「どうして?」「なぜ?」に答えているようにも見えるけど実は答えていないのではないだろうかと思わないこともない。
それならこうだ。
「自分がされても構わないのなら人にしてもいいのか」
しかしこの答えはほぼ間違いなく例外なくNOである。
殴られて嬉しい人が人を殴ってもいい理由として自分の快楽を挙げたところで無罪にはならない。つまりこれは理由にはなっていない。と、少なくとも人間ひとりとしてこっそりと思うのだが。
極論かもしれないが「どうして人を殺しちゃいけないの?」という問いに対して「あなたが殺されたくないからよ」と答えたらどうなるだろう。
「じゃあ、自分が死にたい時は人を殺してもいいのね」
ということにならないとは言えないのではないだろうか。単にひねくれているだけかもしれないが。あれ、社会学的だな(そうか?)
「自分がされたら嫌だから人にもしないように」という、これが「なぜ?」の答えだったら、「自分がされても構わないことは人にしてもいい」という事にだって繋がるだろう。
やっぱり「なぜ?」に対して大人は答えられない。
もしかしたらこの答えを見つけることができるのは子どもと大人の境目なのかもしれないが、別に研究したいほどの興味でもないので誰かやってくれるといいなと思いながらぼんやりしておきたい。
きっちり理詰めでいけばきっといい題材になるんじゃないか。
吐き出しているだけのこの場でそんなことしないけどな!所詮ただの呟きだもの。
同時に根拠なく自分はそんな大人にならないような気もしてました。
そしてそれと対にでもなるように、「だめ」とか「いけない」とか、そんなことを言われた時に子どもってのは「どうして?」「なぜ?」って思う生き物だと今となっては思います。
しかし、この「どうして?」「なぜ?」に大人は答えられない。
だって自分も子どもの頃にそれを知らないまま教えられて大人になったから(ではないだろうか)
子どもにだってもちろんわかる。
人を叩いてはいけないとか意地悪しちゃいけないとか、そういうことはね。
でも「どうして?」「なぜ?」って思った時、大人はその疑問を捻り潰す。
でもじゃないだってじゃない!そういうものなの!あなただってされたら嫌でしょう!って。
「自分がされたら嫌だから人にしない」ようにさせるのって、この「どうして?」「なぜ?」に答えているようにも見えるけど実は答えていないのではないだろうかと思わないこともない。
それならこうだ。
「自分がされても構わないのなら人にしてもいいのか」
しかしこの答えはほぼ間違いなく例外なくNOである。
殴られて嬉しい人が人を殴ってもいい理由として自分の快楽を挙げたところで無罪にはならない。つまりこれは理由にはなっていない。と、少なくとも人間ひとりとしてこっそりと思うのだが。
極論かもしれないが「どうして人を殺しちゃいけないの?」という問いに対して「あなたが殺されたくないからよ」と答えたらどうなるだろう。
「じゃあ、自分が死にたい時は人を殺してもいいのね」
ということにならないとは言えないのではないだろうか。単にひねくれているだけかもしれないが。あれ、社会学的だな(そうか?)
「自分がされたら嫌だから人にもしないように」という、これが「なぜ?」の答えだったら、「自分がされても構わないことは人にしてもいい」という事にだって繋がるだろう。
やっぱり「なぜ?」に対して大人は答えられない。
もしかしたらこの答えを見つけることができるのは子どもと大人の境目なのかもしれないが、別に研究したいほどの興味でもないので誰かやってくれるといいなと思いながらぼんやりしておきたい。
きっちり理詰めでいけばきっといい題材になるんじゃないか。
吐き出しているだけのこの場でそんなことしないけどな!所詮ただの呟きだもの。
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